小児甲状腺がん
2025/09/11 - 15:43

「私が受けてきたものは構造的暴力」甲状腺がん裁判原告が意見陳述

東京電力福島第一原発事故に伴う放射性物質の影響で甲状腺がんになったとして、事故当時、福島県内に住んでいた若者が東京電力に損害賠償を求めた「311子ども甲状腺がん裁判」の第15回口頭弁論が9月17日、東京地方裁判所で開かれた。6月に追加提訴した原告が、「私が受けてきたものは構造的暴力」だと述べ、「私にとって福島で育つということは、国や社会は守ってくれないということを肌で感じることだった」と声を詰まらせながら訴えた。

この日の法廷では、原告側の田辺保雄弁護士が、被告の訴えている「100ミリシーベルト以下では健康影響はなくない」とする「100ミリシーベルト閾値論」は1960年代からすでに否定されていると批判。レントゲン室の前に掲げられている「妊娠中の女性は申し出てください」というサインは、低線量のレントゲンでも胎児に影響があるからだと指摘し、被告・東電側が根拠としている放射線影響研究所のLSS研究の疫学調査の問題点を指摘した。

また、井戸弁護団長は、チェルノブイリ原発事故後、ベラルーシで甲状腺患者の診療にあたった菅谷昭元松本市長の意見書を紹介しながら、被告が唱える「潜在がん」説を批判した。さらに、原告の損害についても主張。被害が、史上最悪の人災によって、人生を破壊され、変容したと訴えた。

「支えてくれる人の存在、想像していなかった」原告が支援集会に登壇

この後、6月に追加提訴したいわき市出身の原告が遮蔽をせずに、意見陳述をした。女性は、白いブラウスにベージュのスカート姿で証言台に進み、椅子に座って、ゆっくりと意見陳述を読み上げた。途中で言葉をつまらせ、言葉を継げない場面もあったが、声を振るせながらも、最後まではっきりとした声で読み上げた。傍聴席はしんとしずまり、裁判官も真剣な顔で聞き入っていた。

女性は口頭弁論の後、記者会見にも参加。「涙が出てくるとは思っていなかったので、びっくりした」「他の原告が優しく支えてくれた」と意見陳述をやり遂げた思いを語った。また、日比谷コンベンションホールで開かれている支援集会にも登壇。「前回の支援者集会も実は外でこっそり見させていただいたんですけれど、やっぱりこういった支援者の方がいるっていうことがすごく私にとってすごく大きい。一人ひとり、こんなに支えてくれる方がいるんだっていうことは、がんになった時は、想像していなかったことだったので、とても嬉しくて。とてもほっとしました。」と頭を下げた。会場からは温かな拍手が湧いた。原告が支援者の前に登場するのは初めてとなる。

原告8・ひとみさん 意見陳述全文

震災が起きた時、私は小学6年生でした。ランドセルを玄関に放り投げて学校に行き、ブランコに乗っていた時に大きな揺れがきました。原発が爆発したことは、よく覚えていません。ただ、将来自分ががんになって、病院へ行く想像をした一瞬は覚えています。いつかがんになって死ぬかもしれない。12歳で、そういうことを、なんとなく受け入れていました。

原発事故後の世の中の急な変化で、感情が麻痺し始めました。目の前が薄く暗くなり、沼の中を歩いているような苦痛な日々でした。でも毎日学校があって、部活に行き、友達と家に帰る。その繰り返しで、ニュースで語られる「フクシマ」と、自分の生活はかけ離れていました。外国では、福島には人は住めないと言われているらしいけれど、私の目の前には震災すら日常になった、日々がありました。

高校2年生のときに甲状腺がんが見つかって、手術することになりました。どうしてがんになったのか、先生に聞くと、「この大きさになるには10年以上かかるから、原発事故の前にできたもの」と説明されました。私は、「原発事故と関係ない」というその言葉を素直に受け入れました。医師は私を見て「みんなあなたのようだったらいいのに」と言いました。その当時、「甲状腺がん」という言葉は原発事故と直結していて、この診断を聞いて、普通でいられる人はほぼいないのだと感じました。検査も手術も、異様に軽い雰囲気で進められて、見つかってラッキーだったね。せっかくだし取ってしまおう。とってしまえば大丈夫。そんなノリでした。

手術を終え、大学に進学すると、私は激しい精神症状に苦しめられるようになりました。幻聴、幻覚、錯乱状態、発作。身がちぎれそうな、激しい苦痛が9年続きました。その時はなぜ、そのような症状が出るのか、わかっていませんでした。でも、大学卒業後に受診した精神科で、震災のPTSDと言われました。

震災や原発事故があっても大丈夫だった。がんになっても大丈夫だった。そう感情を麻痺させてきたツケを払うように、心も体も壊れていきました。裁判のためにカルテを開示すると、1回目の検査の時は、がんどころか、結節もありませんでした。わずか2年で、1センチのがんができたのです。しかも、リンパ節転移や静脈侵襲がありました。

「事故前からあった」という医師の発言は嘘でした。この事実を知り、私の精神状態は悪化し、提訴後、会社を辞めました。

 私は9年前、手術の前日の夜、暗い部屋で1人、途方もない不安や恐怖を抱えていました。その時、私の頭に浮かんだのは、「武器になる」という言葉でした。私は当時、「甲状腺がんの子ども」を反原発運動に利用する大人に怒っていました。私は、大人たちの都合のいい「かわいそうな子供」にはならない。なにがあっても幸せでいよう。そう思いました。不安と恐怖と混乱で、溺れてしまいそうな中、手繰り寄せて、掴んだものは、怒りです。尊厳を侵された時、怒りが湧くのだと知りました。それをかすがいに、甲状腺がんへの不安を乗り越えた高校生の時の私と共に、今、私はここに立っています。

 でも大人に利用されたくないと、強く願っていた私は、気づくと、国や東電に都合のいい存在になっていました。胃がねじきれそうなほど、悔しいです。 
  
私が受けてきたものは構造的暴力です。命より、国や企業の都合を優先する中で、私たちの存在はなかったことにされていると気づきました。私たちは論争の材料でも、統計上の数字でもありません。甲状腺がんで、体と人生が傷ついた私達は、社会から透明にされたまま、日々を生きています。私にとって福島で育つということは、国や社会は守ってくれないということを肌で感じることでした。十分すぎるほど諦め、失望しました。でも、私は、抵抗しようと思います。命と人権を守る立場に立った、どうか独立した、正当な判決をお願いします。

2大争点は「県民健康調査結果」と「100ミリシーベルト論」

口頭弁論期日に先立ち、東京地裁の同じ304号法廷で、裁判所と原告・被告の弁護団の進行協議があった。証人尋問に向けて争点を整理するために、約2時間かけて、3者で争点について議論した。原告弁護団によると、裁判所は、この裁判の因果関係について、100ミリシーベルト論、県民健康調査結果の評価、被曝線量の3つの内容を総合的に考慮して判断すると話しているという。

また、多くの争点の中で、「100ミリシーベルト論」と「県民健康調査結果の評価」が最も大きな争点であると認識しているという。次回の12月にかけて争点整理を進め、来年12月には証人尋問に入る見通しだ。裁判は大きな鏡面を迎えている。次回の第16回期日は、12月17日(水)14時15分から東京地裁で開かれる。

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