- TOPページ
- 波打ち際に足跡を残す
- メッセージ
メッセージ
口にできない痛みを写す 白石 草(監督・プロデューサー)

「啐啄」という言葉がある。
雛が卵から孵ろうと中から殻をつつくと、親鳥が外から卵をつつく、その特別な関係を表した言葉だ。禅宗の仏教書「碧巌録」が出典とされる。「波打ち際に足跡を残す」は、まさに啐啄によって生み出された「生命」だと私は感じている。
私がこはくに初めて会ったのは、5年ほど前だ。避難先のアパートの前の駐車場で顔を合わせた。当時の彼女は口を固く閉ざし、近寄りがたい雰囲気があった。強い光を放つ瞳に、どことなく大人への警戒心が漂う。その彼女にカメラを向ける日が来るとは、当時はとても考えられなかった。
初めての撮影
甲状腺がん裁判の原告でもあるこはくに、ドキュメンタリーの提案をしたのは、2025年6月だ。こはくは大学3年生になっていた。彼女の陳述書が完成したタイミングで声をかけると、取材に応じても良いという。ただ「顔を出さない撮影」を前提で考えていた。
撮影の日、東京の空には、灰色の雲が低く垂れ込めていた。こはくとは、昼過ぎに水道橋駅で待ち合わせ、雨が降り出しそうな空を見上げながら、インタビューする場所に急いだ。その時の私の頭は混沌としていた。
私はこれまで、顔にボカシを入れる映像作品は邪道だと思ってきた。匿名性が強調される中で、映し出された人の個性が消され、「被害者」という特殊なレッテルばかりが目立ってしまうからだ。何より、ひとの葛藤は言葉より、表情に表れる。だから、私は顔出しNGである以上、甲状腺がんの患者や家族をテーマにカメラを回すことはできないと諦めてきた。
にもかかわらず、こはくにカメラを向けたいと考えたのは、強い危機感による。原発事故から15年が経ち、事故の記憶が薄れる中で、福島第一原発事故の過酷さや甲状腺がん患者の苦悩は、多くの人の関心から消えている。あの事故とは一体、何だったのか。中学生でがんになり、子ども時代を奪われてきた彼女を通して、何かを伝えられるのではないかと考えた。
幸いこはくは、私の提案に賛同してくれた。こう書くと、すんなり同意を得られたかのように見えるがそうではない。以前の彼女なら拒否したと思う。私自身、撮影の「さ」の字も口にすることも憚られた。少し前の彼女は、繊細なガラス細工のようで、私はいつも、どんな言葉を語りかけて良いかすら、わからなかった。
しかし、彼女が少しずつ変化していることを私は感じとってきた。だから、私がそのような提案を口にできるようになったこと自体が、期が熟していたことを意味する。彼女にとっても、突然のプロポーズではなかったのだろう。
撮影直前の決断
とはいえ、大学3年生の彼女は、授業だけでなく、インターンシップや説明会で忙しい。密着撮影などもってのほか。無理をさせることはできないし、日程的な制約も多い。私は彼女に負担をかけないために、どのように撮影すればいいのか、迷い続けた。だから、インタビューの日取りも、撮影場所もなかなか決まらなかった。
私は結局、神保町にあるキッチン付きの部屋を借りた。古びたビルの一室だ。入ると、部屋には、木製の大きなテーブルとソファーが一つ。温かな雰囲気の部屋でホッとした。
普段は自分で撮影することも多いが、今回は、フリーランスの野田亮介さんにお願いた。彼は、ディレクターとしても有能だが、撮影した映像に透明感があり、頼りにしている。ただ、この段階でもなお、私の撮影方針は固まっていなかった。彼女の顔は完全にぼかすのか、あるいは後ろ姿で撮影するのか。
野田さんが、2つのカメラと照明のセットを始めた。ほとんど顔が見えない角度で後ろと横から撮影する。最初はそんなぼんやりとしたイメージで、カメラのセッティングをお願いした。
ところが、カメラを覗くと、チラリと映る彼女の横顔が瑞々しくて、とても美しい。私の中に、これを撮影せずにどうするのか?という感情が芽生えた。
そこで、恐る恐る申し出た。「顔を出したい」と。
すると、彼女は特に悩むこともなく、すんなり了承した。ホールや劇場といった閉ざされた環境で上映するのであれば構わないという。撮影直前の決断だった。いや、もしかすると、すでに気持ちは、固まっていたのかもしれない。
封印された言葉を引き出す
こはくは2021年暮れ、裁判への参加を決めた。提訴のわずか20日前、2022年1月5日、訴状を作るための初の聞き取りが行われた。私も弁護団と一緒に、会津の避難先を訪問した。
その時のこはくは体を小さく固くして、ほとんど何も話さなかった。質問へは母親が代弁した。今思えば、自分の過去を振り返り、気持ちを整理することさえ、ままならなかったのだろう。
しかし、その彼女が徐々に変わっていく。最初のきっかけは、意見陳述の作成だった。彼女は2022年9月、第2回口頭弁論で意見陳述をした。
カロリン・エムケの『なぜならそれは言葉にできるから』にもあるように、トラウマを抱えた人は、「それ」を言葉にできなくなる。自分の被害に目を向け、「それ」を思い出せば傷口が広がる。心の奥底に封印することで、自分自身を守っている。
ところが、裁判で意見陳述をするには、あえて自分の痛みを直視し、言葉を掘り起こさなければならない。だから、甲状腺がんの裁判では、原告にぐいぐいと質問するやり方は避け、原告と弁護団が毎週ミーティングを行ない、原告自らが少しずつ、自分の経験を書き溜める方法で、意見陳述を作り上げる方法論を編み出した。
こはくは毎回、自分の経験を小さな字でノートに手書きしてきた。数学のノートの端に書き込んでいたこともある。授業中に書き留めたのだろう。
ただ、最も強く心の中に抱えている将来への不安については、こうしたメモでは一切、触れていなかった。そこで、1月の訴状作成時の聞き取りをもとに、本人が避けてきた言葉も盛り込むことにした。
ところが、こはくは、それら全てを削除してほしいと言う。若手の担当弁護士はそれを受け入れ、いったんは全部カットした。しかし、それはあまりに惜しい。説得の末、残すことになった。生々しい感情を人に知られたくない。そんな意識が働いたのだろう。
その経過を知る私は、インタビューの日、最初から最後まで緊張の連続だった。いつ、急に心変わりするか分からないという不安。地雷を踏んでしまうのではないかという恐怖。しかし、この日のこはくは緊張しながらも、自分の気持ちを、いつになく率直に話してくれた。これまで押さえていたものが、ストレートな言葉となって、胸に響く。驚いたのは、その後の取材だ。
インタビューから2ヶ月が経った11月に、双葉町で2度目の取材をした。その時もまだ、撮影には迷いがあり、心のどこかに遠慮があった。ところがである。双葉町の原子力災害伝承館でも、双葉町の街中でも、浜辺でも、こはくは、被写体として映し出されることを躊躇するような素振りはなく、むしろ積極的にカメラのレンズの中に飛び込んできたのである。
翌朝は、こはくが小さな時によく遊んだ海水浴場にも行った。水に浸かるには寒い時期だ。しかし、こはくはためらうことなく波に足を入れ、波と戯れるように、浜辺を歩いてみせた。彼女は、カメラを向けられるたびに、身に纏っていた殻を少しずつ剥ぎ取っていったように見える。
タイトルに込めた思い 渡辺 一枝(スーパーバイザー)

某日、神保町のビルの一室でパソコンの画面に流れる映像を視聴していた。視聴にあたっての課題は、いま視聴している映像にタイトルを付けるということだった。
主人公のこはくさんは、中学1年の時の穿刺細胞診の痛みと不安、また甲状腺がんが診断されてから受けたアイソトープ治療の辛さや、点滴の管から外されて自由に動きたかった入院時の思いを語る。
2011年3月、卒園式を迎えることもなく海辺の町から遠く離れた会津へ避難した少女のあの日からを思うと、壮絶な体験に胸が抉られて、私はいたたまれない思いにとらわれながら画面を見つめていた。海辺に立つこはくさんの後ろ姿をカメラは追い、スニーカーを履いたこはくさんは寄せて来る波に躊躇もなく、濡れることにもまるで無関心なように気負いもなく、ごく自然なふうに波打ち際を歩いていた。
観終えてもまだ私は、無邪気で伸びやかであろう筈だった“子どもの時間”が奪われた20年の歳月に気持ちが向いて、すぐには言葉が出せないでいた。それでも何か言わなければならないようなその場の空気に押されて、ふと、口をついて「波打ち際に足跡を残す、かしらねぇ」と言った。それはこの日、一緒に映像を見るにあたっての課題であった「タイトルを考える」ことと関わりなく、ため息のように漏れたことばだった。
だが私がそのことばを発すると、それまで何か思いあぐねたような表情だった白石さんの目に光が射して(私にはそんなふうに感じられた)、「いいですね!それでいきましょう!」と言い、パソコンを操作していた高木さんも白石さんの声に頷いた。ため息をつくようにことばを発した私だったが、白石さんの弾んだ声に「あ。これってタイトルに相応しいかもしれない」と思えた。そしてじわりじわりと、その思いは強くなっていった。何気ないことばを白石さんが掬い取ってくれたのだった。
内在した思いは、意識せずとも行動に現れるのかもしれない。なんの気負いもなく波打ち際を歩いて行ったこはくさんの足取りは、「あったことを、無かったことにはさせない」意思を表していたのだろう。ため息のようにふと口をついて出た私のことばもまた、こはくさんの思いを感じとって出たものだったのだろう。そして白石さんは、そのことばに自身の内にある思いを重ね合わせて、しかと受け止めたのではなかったかと思う。「波打ち際に足跡を残す」のタイトルは、こうして生まれた。
主題歌「よるべの海」制作によせて 櫻井 杜音(主題歌制作)
このドキュメンタリー映画を見終えた後に、私の中に強く残ったものは、痛みと諦めでした。
東日本大震災が発生した当時、コハクさんは幼稚園児。甲状腺がんの検査を受け、手術をする映像は直視することができないものでした。生き延びるために、大きな痛みを引き受けなければならないこと。お医者さんの指示にしたがって、淡々と現状を受け入れていかなければならないこと。患者だから仕方がない、と、隔離された部屋で看護師からご飯を受け取ること。
痛みをなかったことにしないで。最初に映画を通して伝えるべきメッセージだと思い、初稿の歌詞を制作しましたが、白石さんから頂いたフィードバックは「痛みにフォーカスするよりも、誰かと出会う希望や絆を打ち出していきたい」ということでした。震災を語るうえで、安易な希望を打ち出したくないことを、はじめに考えていたので、どう歌詞を制作するか、迷いました。今振り返ると、当時あるいは今の自分の傷みに共鳴して、どうにか理解されたいという利己的な心の働きが強かったのかもしれません。
希望に対してどちらかというと消極的な自分が、どう希望を歌えばいいのか。曲を練り直すなかでヒントになったのは、成長の過程に対するよろこびでした。本人が努力してどうにかなるというよりも、周りと関わるなかで少しずつ変化していく。大人へ向かうにつれて、関わる人が増え、その分だけ、自分の気持ちや経験を表現する言葉が増えていく。経験は違くても、同じようなよろこび、いかり、かなしみを抱いたことがある人に出会い、ほころぶ。そういう変化に対する喜びを、歌詞として表現しました。
映画の中でコハクさんは、諦めていると同時に、諦めていないように感じました。それは、自分ではどうにもならなかったことに対する過去の諦めを手放すことなく、自分の人生をよりよく送るため血としてつながっているような、そんな気がしました。 よるべの海というタイトルの「よるべ」は、「寄る辺」という言葉に由来します。「寄る辺」は「頼みとして身を寄せるところや人」を意味する言葉です。誰一人同じでない人々が、どこかであるいは何かで出会い、思いを分かち合う。この映画が寄る辺となり、心のほころびとなり、明日を生きていける小さな灯になるとしたら、とても素敵なことだと思います。
HP https://www.ourplanet-tv.org/namiuchigiwa
SNS Facebook | X | Instagram
市民が主役のメディアで
社会を変えよう!
Standing Together, Creating the Future.
OurPlanet-TVは非営利の独立メディアです。視聴者の寄付を原動力に取材活動を展開しています。あなたもスポンサーとして、活動に参加してください。継続的に支援いただける方は会員にご登録ください。
※OurPlanet-TVは認定NPO法人です。寄付・会費は税額控除の対象となります。