小児甲状腺がん
2022/05/26 - 10:09

「子ども甲状腺がん裁判」 始まる~20代女性陳述「大学行きたかった」

東京電力福島第一原発事故に伴う放射性物質の影響で甲状腺がんになったとして、事故当時、福島県内に住んでいた男女6人が東京電力に損害賠償を求めた「311子ども甲状腺がん裁判」の第1回口頭弁論が26日、東京地裁であった。

この日の裁判では、弁護士らが訴状の要旨を陳述したほか、原告の20代女性が法廷に立ち、意見陳述した。女性は、高校生の時にがんが発覚。手術後、大学に進学したものの、再発と転移により、大学を中退。以来、治療中心の生活を送っている。放射性ヨウ素を服用する特殊な治療・アイソトープ治療の過酷さや、将来の夢を描けない苦しさを綴った陳述書を、約15分かけて読み上げた。

甲状腺がんをめぐっては、インターネットを中心に、被曝影響を主張する言説に対してバッシングが広がっていることもあり、原告は、傍聴席からは見えないよう、四角いパーテーションで囲われた中で陳述した。がんが分かった時のことや、大学を断念したことなど、苦しい経験を語るくだりでは、時折、声をつまらせたり、しゃくりあげるような泣き声となったが、声を震わせながらも最後まで読み続けた。

*原告が前日に練習で読み上げた意見陳述(録音)音声は変えてあります

2回目以降の意見陳述は未定

この日は、意見陳述をした原告以外に、3人の原告が出廷。やはり傍聴席から見えないよう、パーテーションで仕切られた原告席で弁論に参加した。同席した弁護士によると、原告の陳述に聴き入りながら、3人とも涙が止まらなくなり、慟哭するようば場面もあったという。意見陳述の間中、法廷内は、鼻をすする声が終始聞こえていた。

原告の意見陳述をめぐっては、4月に行われた進行協議で、東京電力が原告の意見陳述の実施に反対を唱えており、2回目以降の予定は決まっていない。原告弁護団は弁論の最後に、原告の意見陳述を認めるよう改めて主張。被告側代理人は明確に反対はせず、裁判所に委ねると述べた。裁判所は1週間程度で方針を示す。

被曝との因果関係が争点

この裁判の最大の争点は、事故に伴う放射線被曝とがん発症の因果関係となる見通しだ。原告側は、年間で100万人に1~2人しか発症しない小児甲状腺がんが、この10年間に293人が発症したと指摘。また、子どもの甲状腺がんの最大の発症因子は放射線被曝であることから、疫学的な手法で、因果関係は証明できると主張している。

一方、原告側によると、東電側は答弁書で、原告らは被曝していないなどと反論しているという。次回の裁判は、3ヶ月後の9月7日に開かれる。

原告の意見陳述要旨

あの日は中学校の卒業式でした。
友だちと「これで最後なんだねー」と何気ない会話をして、部活の後輩や友だちとデジカメで写真をたくさん撮りました。そのとき、少し雪が降っていたような気がします。

地震が来た時、友だちとビデオ通話で卒業式の話をしていました。最初は、「地震だ」と余裕がありましたが、ボールペンが頭に落ちてきて、揺れが一気に強くなりました。
「やばい!」という声が聞こえて、ビデオ通話が切れました。

「家が潰れる。」
揺れが収まるまで、長い地獄のような時間が続きました。

原発事故を意識したのは、原発が爆発した時です。「放射能で空がピンク色になる」
そんな噂を耳にしましたが、そんなことは起きず、危機感もなく過ごしていました。

3月16日は高校の合格発表でした。
地震の影響で電車が止まっていたので中学校で合格発表を聞きました。歩いて学校に行き、発表を聞いた後、友達と昇降口の外でずっと立ち話をして、歩いて自宅に戻りましたが、
その日、放射線量がとても高かったことを私は全く知りませんでした。

甲状腺がんは県民健康調査で見つかりました。
この時の記憶は今でも鮮明に覚えています。
その日は、新しい服とサンダルを履いて、母の運転で、検査会場に向かいました。

検査は複数の医師が担当していました。検査時間は長かったのか。短かったのか。首にエコーを当てた医師の顔が一瞬曇ったように見えたのは気のせいだったのか。検査は念入りでした。

私の後に呼ばれた人は、すでに検査が終わっていました。母に「あなただけ時間がかかったね。」と言われ、「もしかして、がんがあるかもね」と冗談めかしながら会場を後にしました。この時はまさか、精密検査が必要になるとは思いませんでした。

精密検査を受けた病院にはたくさんの人がいました。この時、少し嫌な予感がしました。
血液検査を受け、エコーをしました。
やっぱり何かおかしい。自分でも気づいていました。そして、ついに穿刺吸引細胞診をすることになりました。この時には、確信がありました。私は甲状腺がんなんだと。

わたしの場合、吸引する細胞の組織が硬くなっていたため、なかなか細胞が取れません。
首に長い針を刺す恐怖心と早く終わってほしいと言う気持ちが増すなか、3回目でようやく細胞を取ることができました。

10日後、検査結果を知る日がやってきました。あの細胞診の結果です。病院には、また、たくさんの人がいました。結果は甲状腺がんでした。

ただ、医師は甲状腺がんとは言わず、遠回しに「手術が必要」と説明しました。
その時、「手術しないと23歳までしか生きられない」と言われたことがショックで今でも忘れられません。

手術の前日の夜は、全く眠ることができませんでした。不安でいっぱいで、泣きたくても涙も出ませんでした。でも、これで治るならと思い、手術を受けました。

手術の前より手術の後が大変でした。
目を覚ますと、だるさがあり、発熱もありました。麻酔が合わず、夜中に吐いたり、気持ちが悪く、今になっても鮮明に思い出せるほど、苦しい経験でした。今も時折、夢で手術や、入院、治療の悪夢を見ることがあります。

手術の後は、声が枯れ、3ヶ月くらいは声が出にくくなってしまいました。

病気を心配した家族の反対もあり、大学は第一志望の東京の大学ではなく、近県の大学に入学しました。でも、その大学も長くは通えませんでした。甲状腺がんが再発したためです。

大学に入った後、初めての定期健診で再発が見つかって、大学を辞めざるをえませんでした。
「治っていなかったんだ」「しかも肺にも転移しているんだ」とてもやりきれない気持ちでした。「治らなかった、悔しい。」この気持ちをどこにぶつけていいかわかりませんでした。
「今度こそ、あまり長くは生きられないかもしれない」そう思い詰めました。

1回目で手術の辛さがわかっていたので、
また同じ苦しみを味わうのかと憂鬱になりました。手術は予定した時間より長引き、
リンパ節への転移が多かったので傷も大きくなりました。

1回目と同様、麻酔が合わず夜中に吐き、
痰を吸引するのがすごく苦しかった。
2回目の手術をしてから、鎖骨付近の感覚がなくなり、今でも触ると違和感が残ったままです。

手術跡について、自殺未遂でもしたのかと心無い言葉を言われたことがあります。自分でも思ってもみなかったことを言われてとてもショックを受けました。
手術跡は一生消えません。それからは常に、傷が隠れる服を選ぶようようになりました。

手術の後、肺転移の病巣を治療するため、
アイソトープ治療も受けることになりました。
高濃度の放射性ヨウ素の入ったカプセルを飲んで、がん細胞を内部被曝させる治療です。

1回目と2回目は外来で治療を行いました。
この治療は、放射性ヨウ素が体内に入るため、まわりの人を被ばくさせてしまいます。
病院で投薬後、自宅で隔離生活をしましたが、
家族を被ばくさせてしまうのではないかと不安でした。2回もヨウ素を飲みましたが、がんは消えませんでした。

3回目はもっと大量のヨウ素を服用するため入院することになりました。
病室は長い白い廊下を通り、何回も扉をくぐらないといけない所でした。
至る所に黄色と赤の放射線マークが貼ってあり、
ここは病院だけど、危険区域なんだと感じました。病室には、指定されたもの、指定された数しか持ち込めません。汚染するものが増えるからです。

病室に、看護師は入って来ません。
医師が1日1回、検診に入ってくるだけです。
その医師も被ばくを覚悟で検診してくれると思うととても申し訳ない気持ちになりました。
私のせいで誰かを犠牲にできないと感じました。

薬を持って医師が2、3人、病室に来ました。
薬は円柱型のプラスチックケースのような入れ物に入っていました。

薬を飲むのは、時間との勝負です。
医師はピンセットで白っぽいカプセルの薬を取り出し、空の紙コップに入れ、私に手渡します。

医師は即座に病室を出ていき、鉛の扉を閉めると、スピーカーを通して扉越しに飲む合図を出します。私は薬を手に持っていた水と一緒にいっきに飲み込みました。

飲んだ後は、扉越しに口の中を確認され、放射線を測る機械をお腹付近にかざされて、お腹に入ったことを確認すると、ベッドに横になるように指示されます。

すると、スピーカー越しに医師から、
15分おきに体の向きを変えるように指示する声が聞こえてきました。

食事は、テレビモニターを通じて見せられ、
残さずに食べられるか確認し、汚染するものが増えないように食べられる分しか入れてもらえません。

その夜中、それまではなんともなかったのに、急に吐き気が襲ってきました。
すごく気持ち悪い。なかなか治らず、焦って、
ナースコールを押しましたが、看護師は来てくれません。

ここで吐いたらいけないと思い、必死でトイレへ向かいました。

吐いたことをナースコールで伝えても
吐き気どめが処方されるだけでした。
時計は夜中の2時過ぎを回り、
よく眠れませんでした。

次の日から、食欲が完全に無くなり、
食事ではなく、薬だけ病室に入れてもらうことのほうが多かったです。2日目も1、2回吐いてしまいました。

私は、それまでほとんど吐いたことがなく、
吐くのが下手だったため、眼圧がかかり、
片方の目の血管が切れ、目が真っ赤になっていました。扉越しに、看護師が目の状態を確認し、目薬を処方してもらいました。

病室から出られるまでの間は、気分が悪く、
ただただ時間が過ぎるのを待っていました。

病室には、クーラーのような四角い形をした放射能測定装置が、壁の天井近くにありました。その装置の表面の右下には数値を示す表示窓があり、私が近づくと数値がすごく上がり、離れるとまた数値が下がりました。

こんなふうに3日間過ごし、ついに病室から出られる時が来ました。
パジャマなど身につけていたものは全て鉛のゴミ箱に捨て、ロッカーにしまっていた服に着替えて、鉛の扉を開け、看護師と一緒に長い廊下といくつもの扉を通って、外に出ました。

治療後は、唾液がでにくいという症状に悩まされ、水分の少ない食べ物が飲み込みづらくなり、味覚が変わってしまいました。

この入院は、私にとってあまりにも過酷な治療でした。二度と受けたくありません。

そんな辛い思いをしたのに、治療はうまくいきませんでした。治療効果が出なかったことは、とても辛く、その時間が無駄になってしまったとも感じました。以前は、治るために治療を頑張ろうと思っていましたが、今は「少しでも病気が進行しなければいいな」と思うようになりました。

病気になってから、将来の夢よりも、治療を最優先してきました。治療で大学も、将来の仕事につなげようとしていた勉強も、楽しみにしていたコンサートも行けなくなり、全部諦めてしまいました。

でも、本当は大学を辞めたくなかった。卒業したかった。大学を卒業して、自分の得意な分野で就職して働いてみたかった。新卒で「就活」をしてみたかった。友達と「就活どうだった?」とか、たわいもない会話をしたりして、大学生活を送ってみたかった。
今では、それは叶わぬ夢になってしまいましたが、どうしても諦めきれません。

一緒に中学や高校を卒業した友達は、もう大学を卒業し、就職をして、安定した生活を送っています。
そんな友達をどうしても羨望の眼差しでみてしまう。
友達を妬んだりはしたくないのに、そういう感情が生まれてしまうのが辛い。

病院に行っても、同じ年代の医大生とすれ違うのがつらい。同じ年代なのに、私も大学生だったはずなのにと思ってしまう。

通院のたび、腫瘍マーカーの「数値が上がってないといいな」と思いながら病院に行きます。
でも最近は毎回、数値が上がっているので、「何が悪かったのか」「なぜ上がったのか」とやるせない気持ちになります。

体調もどんどん悪くなっていて、肩こり、手足が痺れやすい、腰痛があり、すぐ疲れてしまいます。薬が多いせいか、動悸や一瞬、息がつまったような感覚に襲われることもあります。
また、手術をした首の前辺りがつりやすくなり、つると痛みが治まるまでじっと耐えなくてはなりません。

自分が病気のせいで、家族にどれだけ心配や迷惑をかけてきたかと思うととても申しわけない気持ちです。もう自分のせいで家族に悲しい思いはさせたくありません。

もとの身体に戻りたい。そう、どんなに願っても、もう戻ることはできません。この裁判を通じて、甲状腺がん患者に対する補償が実現することを願います。

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